妄想する頭 思考する手
イノベーションのスタート地点には、必ずしも解決すべき課題があるとはかぎらない 真面目なイノベーションが「やるべきことをやる」ものだとしたら、「やりたいことをやる」のが非真面目なイノベーションだ。ウォークマンが誕生した時代とくらべると、今はどちらかというと「真面目」路線の技術開発が注目されているけれど、これはどちらもないといけない。なぜなら、未来に何が起こるかをすべて予測することはできないから。自分の「やりたいこと」は何なのかを非真面目に考えてみるとよいのではないだろう
誰も考えなかった新しい技術は、往々にして、人から「はあ?」と 呆れられるような思いつきから生まれるものだ。ちょっとクレイジーな印象を与えることもあるかもしれない。かつてSF作家のアーサー・C・クラークはこんなことを言った。 「高名で年配の科学者ができると言うときは正しい。でもできないと言うときはたいてい間違い※2」
私が大事にしている思考ツールはとてもシンプルに「言語化」だ。言語化すれば一撃でわかる。 モヤモヤとした頭の中のアイデアをとにかく言語化してみることで、そのアイデアの穴が見えてきて、妄想は実現に向かって大きく動き出す。 クレームは一行で書き切るのがベストだ。頭の中ではモヤモヤと無限に広がってしまいそうなアイデアを、できるだけ短い言葉に落とし込む。
・課題は何か? それは誰にとって必要なものか? ・その課題はなぜ難しいのか? あるいはなぜ面白いか? ・その課題をどう解決するのか?(これが最初に思いついた「一行クレーム」に相当する場合が多い) ・その手法で解決できることをどう立証するか? どう決着をつけるか? ・その解決手法のもたらす効果、さらなる発展の
個人で籠もる「作曲部屋」を用意していた。個人の妄想から始まるアイデアづくりは、どこかで孤独なプロセスを経なければいけないのだろう。 **アイデアの「責任」を負うのは、それを思いついた個人であるべき**だ。集団で考えると、責任が分散してしまうので、真剣に考えることができない。「真剣に考えない」とは、つまり、自分自身の妄想と正面から向き合って一行のクレームにまとめるような言語化作業をしないということ 失敗が重要なのは、それが「自分が取り組んでいる課題の構造を明らかにするプロセス」 だから 「見る前に跳べ」という題名の詩や小説があるが、良いアイデアを思いついたら様子を見ていないで手を動かすことだ。 手を動かしていれば、たとえ失敗しても熟考の何倍もの発見があるだろ 何度も失敗を重ねながら手を動かす時間は「神様との対話」をしているのだと思っている。天使のようなひらめきは、腕を組んで考え込んでいてもやってこない。 手を動かしながら、神様に向かって「こうですか? これじゃダメですか? やっぱり違います?」などと問いかけ続けると、いつか神様が「正解はこれじゃ」とひらめきを与えてくれる。そんなイメージだ 「地道に手を動かすことによって、さらに別の妄想が湧いてくることもある」 ひとつのアイデアを形にしようと試行錯誤をしているうちに、そこから別のアイデアが生まれることは少なくない。